• 1
  • 2
  • 3
  • 4
  • 5
  • 6
  • 7
  • 8
  • 9
  • 10
  • 11
  • 12
  • 13
  • 14
  • 15
  • 16
  • 17
  • 18
  • 19
  • 20
  • 21
  • 22
  • 23
  • 24
  • 25
  • 26
  • 27
  • 28
  • 29

他人同士でも会話のできるような雰囲気がもっと欲しい

今日は東京は雨だったのだが、帰りの電車で乗り換えるときに座席に傘を忘れたんだ。

そうしたら近くにいたおばさんが「傘をお忘れになったのではないですか?」と言ってくれて、それで傘を失わずにすんだ。
僕はそれで「危うく傘を失うところだったよ。とても気に入っている傘なんでね。私の父が買ってきた品なんだ」と言ったら、そのおばさんはうれしそうにそれを聞いていた。

アメリカに行ったときに、そこでは自分は外国人扱いを受けることはなかったことを思い出す。
町でいきなり道を聞かれたり、スーパーで知らない人同士なのに、「今日は何を作るのですか?」「これからどこかにおでかけですか?」などなど他愛のない話が自然体でされる。

僕はそういった雰囲気が好きだ。
性悪説で人の悪口だとか、あら探しなんてしたくない。
そんなことにエネルギーを使うよりも、何かを生み出す、他人との共有にこそそれを全て費やしたい。

だけどわかるだろう。
ここ日本で、身の回りでそういうことがなかなか起きない理由を。

今の日本は政治家を中心に、大企業も年寄り連中が牛耳っている。
そういった人たちというのは、まともな人ももちろんいるが、たいてい変化が嫌いで、保守や社内政治に注力をするために、あら探しや揚げ足取りに高いパフォーマンスを発揮する人たちだ。

彼らはいつだって二言めにはできない理由を流暢に話しだすんだ。

年寄り連中からありがたい教えを受ける我々若者はどういった影響をそれで受けるか。

「俺はこんなアイディアを持っていてやってみたいんですけど、どうでしょう?」
「いや、そのアイディアはAとBという点において成功の見込みが薄いと考えられるから承認はできない」
「(現場ではそんなことは起きていないのに!なんでわかってくれないんだ。もうこの人に話すのはやめよう)」

こんな感じだ。
若い人の中でも例えばアルバイトなどで同じような経験をしたことがある人もいるんじゃないだろうか。

日進月歩のこの21世紀にこんなことが繰り広げられている場所が存在する。
じゃあ何も言わずに黙っていよう。
他者との関わりなんて面倒だし。。。

そんな風潮が結果として生まれ、痴漢が電車の中であっても見ないふりを、喫煙禁止エリアでタバコを吸う貧乏人がいても注意できない、しない人が多くなってしまうのではないか。

僕は食事のまずさと、人種的な見えない差別のような存在を考慮しても、アメリカがうらやましくて仕方がない。
そこに慣れるのに時間がまだまだかかるけれど、正しいことをやれば評価したり、耳を傾ける人がいるし、個人レベルでも声を発する度合いが全く日本とは違う。

よい意味での会話も、悪い意味での会話も活発だ。
つまりそれは、黙っていると本当に自分の居場所がなくなることを意味している訳だが、だからこそ常に自分の頭で考えて、それを言葉としてアウトプットするようになる。
そしてそれらが交わるときにはdiversiyが形成される。

スーパーに行って、他愛のない会話ができる日がこの国でもくることを願いつつ、この国の旧世界のヒエラルキーについて考察してみた。
なぜこんなことを書くのだろうか。
梅田さんのウェブ時代をゆく ─いかに働き、いかに学ぶか を再読したことが影響しているのかもしれない。
関連記事

コメント

コメントを投稿する

管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

月別アーカイブ
カテゴリー別
リンク