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何をやるか よりも 誰とやるか

twitterとFBで実名登録で発信をしているので、このブログも実名発信に統一しようと考え、プロフィール欄をちょっと更新。
いつまでも起業家だの投資家だの響きだけはかっこ良さそうな表現を使っているのもどうかと思ったので、個人的な組織の代表という肩書きで今後は自分の身分を表現することにしました。

実名登録にすることで誰が何を書いているのかがより明確になるので、俺のことを知っている人はより親近感を持って俺の書いたことに接することができると同時に、俺個人を特定とした誹謗中傷が発生するという問題と今後は対峙していかなければならない。

匿名の自由度と実名の責任感を天秤に掛けた上で実名でやっていくことに決めました。
なのでこのことによって何が起きてもそれを受け入れていくつもりだし、そうしなければいけないと考えています。

大学を卒業して働くようになって感じるようになったのは、今の日本では何をやるかということについては制限は何らかかっていないということです。
俺たちは、少なくとも法に反しない限り何をやってもいい。
何かをやらなければいけないなんて誰からも制されていない。

就職をすることがどことなくゴールに見えますが、就職って別にしなくてもいいわけです。
無論、就職をすることで経験が積める、実務を学びやすい、着実にステップアップができるなどのメリットもあるので安易に就職を放棄するのはオススメしません。
だけど俺が言いたいのは万人にとって就職だけが唯一絶対のゴールではないということ。

面接などでなぜ弊社なのか?という質問は表現は変われど何度も何度も聞かれると思いますが、あの質問に共通する真意というのは、選択肢が無数にある中でなぜ弊社を選んだのか、なぜ我々と働こうと考えたのかという点なんだと思うんです。

この国では政治を批判したり、権力者を批判する言論の自由が与えられています。
そんなの当たり前じゃん?と思う人もいますが、隣の国の中国では発言や発信を誤ると逮捕されてしまいます。

何をやるか、何を言うかという点に関して自由が与えられている国に生まれたこと、そこに住む権利を与えられていること、まずここを自覚する。
その上で自分はなぜ何かをやろうとするのか、それを誰とやろうとするのか、ここに着目するのが大切なのかなと最近より強く思いました。

例えばゲームをやるにしても、今は好きなゲームを自分のお金で買う自由が自分にはあるけれども、一人でゲームやってもあまりおもしろくないなーと感じるんです。

それは昔のゲームのほうが良く出来ていたという一言では片付けられない気がしていて、昔ゲームをやってなぜ楽しかったのかって、気の許せる友達が側にいて、彼ら彼女らと一緒になって遊んだから楽しかったのだと思う。

外で遊ぶにしてもサッカーをやりましょうって話になって、学校の体育の授業でやるサッカーと、仲のよい友人とやるサッカーって楽しさの種類が違うと思う。
上手にやらなければ、とか、成績として評価されるために振舞わなければ、といった前提条件なしにサッカーに向き合えるのと、友達と自分たちの好きなようにやるという所が相乗してすごく楽しい!と感じるのだと思う。

仕事の話をするにしても、赤の他人にそれって儲かるんですかって聞かれるとすごく不愉快だけど、信頼している友人に聞かれると全然嫌味に感じなくて自然体に仕事の話ができる。
これも何を聞かれるか、話すかということよりも、誰にそれを聞かれるか、誰に向かってそれを話すかという点が本質だからと思うんです。

慈善事業を死ぬまでやっても、虚業を死ぬまでやっても、誰もそれを咎めたりしない。
家の前の道路を毎日掃除することで一生が終わる、極端な例だけどそんなのもありだということです。

着目すべきことは家の前の道路の掃除をずっとやるとしても、それを誰とやるのか?ということ。
一人でやるというのももちろんありだと思うんです。
家族とやる、近所の人とやる、学校の先生とやる、地域の政治家とやる、誰とやってもいい。
その中でなぜ彼らなのか、彼女なのか?ということです。

実はここ数年、優秀な人以外とは付き合いたくないと思ってました。
ダメな人と付き合うと自分のレベルも引き下げられるので、レベルが低い人は意図的に避けようと。
だけど何を持ってダメというかなんて極端に主観的な事でしかないし、誰にも得意なこと、苦手なことってあって、誰かが上手にできる何かに魅力を見出すことっていくらでもできる。
捉え方、感じ方の問題なんだなと思った。

人を肩書きだとか上辺だけで判断してはいけないと言われますが、それを理想論として扱うのではなくて、少しだけ真剣にその通りだよねって思えるようになってきた。
大学出たらとか、有名な企業に勤めていたらとか、部下がたくさんいるとか、、それらは一面であって全てじゃない。

今俺が他人を見る上で、例えばツイッターならその人が何を考えて、どういった発信をしているのかを見ています。
どこどこの会社でマーケティングやって、大学ではトップ10%に入っててみたいのはすごいとは思うけどあんま見ていない。
多分そこにフォーカスが当たっていた時期ってのは、肩書きの高い人、実績のある人と付き合えば自分も何か高められるような、ありがたい存在になれるような根拠なき錯覚を起こしていたのだと思う。

ここ3年ぐらいは本当に肩書きというか、優秀な人とだけ付き合いたいという思いが全面に出てきて、わかりやすい成果や実績が伴わない人、行動を起こせない人はダメな人と傲慢に定義をして選りすぐりしてきました。
で、やってて思うのは心に穴が空くというか、確かに実績のある人や行動力のある人と付き合うとダイナミズムは感じられるんだけど、どことなく虚しいというか、そんなにあくせくやってどうするんだみたいな思いが横から出てくるし、仕事だけが唯一絶対の存在って時代じゃないよってひがんでみたり、純粋さや素直さみたいなものがどんどん欠如していくような感覚がいつもありました。

選りすぐりできることはそれなりの力があればこそのものかもしれません。
しかしそこで勘違いしていはいけないのは誰も自分の力だけで今の地位にまで辿りついているのではないということ。
誰かの善意や助けに支えられて今の自分に至っている。
誰かの犠牲があるから今の自分や世の中が在る。

長くなってしまったけど言いたいことは超シンプル。
何をやるかってのは極論的にはあんま重要じゃない。大事なことはそれを誰とやるかということ。

俺は誰と何をやりたいかという点について多少なりとも定義できるようになってきた。
仕事に関しては今のところ一人でやっていくつもり。
だけどそれ以外の活動に関しては、誰かとやりたいと思うことがいくつかある。
そこにこれからはフォーカスを当てていきたいんだ。
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