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忍耐について もう少し掘り下げて考察してみる

先日読了したリバモアの本に書かれていた事というのは実に多岐に網羅されていて、まさに哲学そのものと表現できる。
彼自身のsyoryと別の本で読んだ事がリンクして、考えておきたいと思ったので独立して書いてみる。

それは”忍耐”についてである。

忍耐力というのはストレス耐性と同意義に定義する人もいるかもしれないが、俺は異なるものだと考えている。
日本の特に労働社会ではこのストレス耐性が高いことと生存に密接な相関があるが、年間5万人を超える自殺者を見ればわかるように、ストレス耐性を労働者に強いることは狂気の沙汰以外の何者でもない。

そしてそんな劣悪な労働環境に甘んじるのがこの国ではデフォルトになってしまったせいか、人々の間には余裕が無い。
俺も時間にゆとりがあると思って生活している割には、ノロノロと歩いている人がいると苛立ってしまうし、手際の良くないレジ担当の人に当たると「この人は新人なのかな」と背景を勘ぐっていたりする。

そんな余裕の無さから生まれる弊害というのは忍耐の不足に他ならないと考える。
しかしどんな事に対してもこの忍耐を発揮すればいいというわけではないはずだ。

忍耐をしすぎて自分の意見を主張できなければ、劣悪な環境や問題が解決されることはないし、物事の変化からは無縁の存在になってしまうであろう。
むしろそういった環境や問題の解決のための取り組みに対して粘り強く臨んでいくことに忍耐力を発揮すべきと考える。

あるいは時期についての考え方。
時期というのはタイミングと言い換えても良い。

今の時期には取り組むべきではないが、2年後に期が熟して今なら行ける!といった経験がある人はいないだろうか。
過去の自分のステージでは到底挑戦すらできそうにないと思えたことが、2年間の間に自身の成熟、成長によって可能になった。
なぜかと言えば、2年間忍耐強く自己を磨くことに取り組めたからである。

俺自身が短期のパフォーマンスを生きる糧のために考えつつも、最終的に長期的な力強い結果に結び付けたいと願っているのもこの考え方に基づいてる。

では忍耐すべき時と、そうでない時というのはどうやって見分けるべきなのであろうか?

俺が思うのは自身の価値観、指標と照らしわせて優先度を定義してみるということだ。
逆に言えば自身の価値観、指標がない間は忍耐をすべきか、そうでないかを判断することは出来ない。

幼少期の間は忍耐を大人たちから強いられることが多かった人もいるだろう。
私もそうであった。
一定の区切りがつくまではどれだけ自分に向いてないことでも放棄することは許されなかった。

当時は苦しいことに耐えればその先に素晴らしい未来が待っていることを多少は信じられる未来だったので、その強いられ方に甘んじていたが、今は違う。
自分が取り組むことで明確な結果や価値を追求できることにしか忍耐力を発揮していない。
つまり残すものと捨てるものを選ぶようになったのである。

それはもちろん自身の価値観と指標に基づいて自分なりに考えた上での行動なので他人から見ればなぜ?と思うこともあるであろう。
だが、それでいいと思ってる。

幸いなことに自分は待つべき時があれば待ち、行動すべき時は行動するという使い分けができる人間だったようだ。
そんな忍耐力や行動力を身につけることが出来たのは、劣悪な環境に身を置いていたことも起因しているのかもしれない。

誰もがHAPPYであれば素晴らしいといつも思う。
しかし願いというのはいつの時代も負の感情から生まれ、その現状とは真逆の世界を渇望することから始まっているのである。

そして自分の願い(夢)を実現させるために忍耐強く取り組むことができるのか、あるいは妥協をして現状と共に生きていくことを選ぶのか。

決めるのはいつだって他ならぬ私達自身なのである。
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