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終演したモデル群の考察

パソコンを売るというモデル以外にはどんな終焉があるだろうか。
考えてみた。
同じIT繋がりだと、Googleの登場が大きい。
例えば、

•大容量のメール(Gメール)
•様々なデバイスと同期が簡単なスケジューラ(Googleカレンダー)
•IMEやATOKに変わるもの(Google日本語入力)
•動画共有 それまでは動画掲示板等を用いていて、重たく、品質も悪かった (You Tube)
•本当に使える地図 グーグルアースは研究者でも使っている人が多い(グーグルマップ、アース、ヤフー地図)
•テレビ電話(Skype)

ほとんどGoogleがこれらを無料で公開したことがきっかけというのが多い。(そしてその当時はweb2.0などといってもてはやされた)
実際とても便利になったし、これらの機能をフル活用できるようなデバイスも多く登場をした。(ブラックベリーやiphoneなど)

「どの業界の、どんな仕事も無料(フリー)という流れから逃れる事はできない」とは有名なベストセラービジネス書の帯に書かれている事だが、本当にそう思う。
それが良い事にせよ、悪い事にせよ、長期的に見たら淘汰されてしまう事をやっていてもダメな時代になった。

昔は、良く言えば利益を出しやすい仕組みが多かったように思う。
そこで知っている事と知らない事の差が多く生まれたが、今はその辺もフラット化されてある意味フェアになった。
今、買い物をする時に値段のチェックをしないで買う人はほとんどいないのではないだろうか。
特に高額な買い物は下調べをすると、かなり購入価格に差が生まれるのを知っている人も増えてきているだろう。

それで僕がかつてこれはひどいと思ったビジネスモデル郡に従事している人たちは今どうなったのかと考えると、多分淘汰に確実に向かっていて、収益もかつてほどは上がってないと思う。
それは学校との癒着を軸にしたモデルである。

学校の制服だとか、指定グッズというのは本当に粗悪なものが多い。
普通に使っていても壊れたり、破れたりするのが多く、ずっと不満に思っていた。
大学に入ってもそういったものは少なからず存在したが、高校あたりまでの癒着が本当にひどかった。


•通気性の悪い体育着
より快適に運動ができる服がスーパーで千円ぐらいで購入できるが、なぜか指定されたものを着用しないと成績の上で減点された。

•本当は必要ないのだけれどなぜか購入していた多くの学校指定グッズ。
指定された鞄。靴、靴下、シャツ。
どれも粗悪でお話にならなかった。デザイン面で悩まずにすむというのはあるのだが、基本となるブレザーやらは別として、ネクタイ、シャツ、靴、鞄は一定のルールを設ければ指定品である必要性は全くないし、経済的にも合理性が見いだせた。だが、なぜか指定したものを身につけないと”乱れている”と判断をされた。

•学校指定の辞書、参考書
辞書まで指定をしている科目もあった。まあ今は電子辞書使う人がほとんとだと思うので自分のいた学校でもこれはもうないと思うが。。。
卒業後にブックオフに持っていったら10円も値段がつかなかったのを覚えている。
参考書に至っては、数ページしか使わないものも珍しくなかった。そしてそこで学んだ事は大して役に立ってない。

歴史を学びたいなら、漫画やドキュメンタリーで楽しみながら記憶する事を前提でない学びが誰でも出来る。

英語を学びたいなら基本的な文法も含めて、その国の言語で、競争社会で勝負している人から教わった方が遥かに効率が良い。

数学を学びたいなら、考え方にこそ焦点を当たるべきで、簡略化できる細かな計算は、今は計算機を使う事がほとんどなのだから、本当に基礎的な四則演算以外は訓練する必要性が見いだせない。

社会について学びたいなら、アルバイトやインターンをした方がダイレクトに世の中との関連性を学ぶことができる。

理科について学びたいなら、暗記や答えありきの学びよりも、メーカーで研究開発している人から習ったり、そういった人と話した方が有意義な学びが得られる。(特に理論が現場でどのように役立つのか。なぜそれを学ぶ、知らなければいけないのかを明確にする事ができる)

その他、高卒という肩書きを手に入れるための代償。教育機関としての認定を受けるためにやむを得ず学ばされた多くの科目。
家庭科、古典、漢文、音楽、美術。
学びたい人に選択肢として提供するなら問題ないが、卒業するために学ぶのなら時間の無駄以外の何者でもなかった。古典やら漢文やらは原書で読む理由が見当たらない。今の表現で訳された本を図書館で読むのではダメなのだろうか。漢文も同様。
音楽や美術は個人の感性による所が多く、それを他人がああだこうだと批評するのは理解できなかった。

今まではこういった不満があっても既存の仕組みに甘んじなければなかなかった。
今は違う。ネットの世界で独学が理論上無限に可能になった。
それで物足りないなら、研究者に連絡を取ったり、大学の公開講座に参加をしたりと、工夫次第でなんとでもできる。
そういう意味ではもう大卒という肩書きは大きな意味を持たなくなったと思う。
大卒でも教養のない人間は私をはじめとしているし、大学を出ていなくても知識人と思わせる人は存在する。

長期的に(すでに)淘汰されると最も思っている事。それは今の教育ではないかと書いていて思えてきた。
塾も、予備校も、本来必要のない存在で、それでも続くのは、過去の一定の実績に基づく、特定の大学を卒業すれば幸福になれるという幻想を人々が追い求めるからにならない。そうなる人ももちろんいるが、そうならない人もきっとたくさんいるのに。

使い古された表現だが、教育ほど効果の見えない投資はないと思う。
プロに任せる事が前提ではなく、家族がそれを示せばいいのにと思う。
生きる事、学ぶ事、全て家庭でも提供する事が可能だと思う。
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