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拝金

マネーと自分の距離について考える時、ものすごく自分の本質的な所に触れる感覚になる。
自分は何を求め、どこに向かおうとしているのか?
この質問に対する答えを、マネーは明確に定義させてくれる。

初めて就職活動をした時に考えた事は、世の中の役に立つ事がしたいという思いだった。
そうすることで働き続けるモチベーションを維持できると思ったし、働き続けるということは稼ぎ続けるという事も意味しているから、何かそれは素晴らしい事のように感じた。

ところが、どこに行っても何をしても、ただ違和感ばかりを感じている自分がいることに気がつく。
それは就職活動をしたからそう思ったのではなく、もっと昔から、幼少の頃から自分はどうやら他の人達と少し違う価値観で動く様だというぼんやりとした感覚から感じていたものだった。

ある日、自分の軸をもう一度見直してみたいと思うほど強烈な体験が僕に降り掛かった。
愛する人との別れ。
人間が乗り越えなければならない苦しみの中の一つ。

この経験を通じて僕は生きる事というのはどういうことなのか、幸福とは一体何なのか?を真剣に考えるようになった。
そして自分が幸せになるために何をしなければいけないのか?を真剣に考えるようになった。

ある日、就職活動を通じで出会ったある会社の役員の人が「なぜ就職するのかを考えてみたらどうだ?」とさりげなく言った。
就職する理由ー。社会に貢献するため。経済的に自立するため。社会人として、プロフェッショナルとして生きていくため。
そういった答えが当時の自分の頭の中では回答として導きだされた。

今でもこういった思いに近いものも部分的に持っているし、こういった考え方が間違っているとは思わない。
きっと他の人達も部分的にはこれに近い思いで、働くための決意をしてきているだろう。

だけど本当にそうなのか?それだけなのか?と聞かれた時に僕の心は一瞬の迷いもなくYES!と答える事がいつもできなかった。

何よりも大きな要因として、既存の働いている人達の中に、自分もこうでありたい、こうなりたいと思える人をほとんど見いだす事が出来なかった。
彼らは確かに高度な実務をこなし、プロとして生計を立て、家族を養っているが、あまり幸せそうに見えない。
稼いではいるが、あまり豊かではない、自転車操業的な側面さえ見えた。

幼い頃から、努力はいい事だ、欠点を少なくして他人から評価される人間になれば成功が出来る、そう教育は教えてきた。
それに応える人達をすごいと思ったし、きっと彼ら彼女らは成功するのだろうとずっと思っていた。
そしてそういった人達のように成果を上げる事の出来ない人間は野垂れ死にするしかないのかもしれないと時々感じていた。

ところが色々な人に会い、様々な側面を見ていくうちに、どうも自分が信じ込まされていた側面は嘘っぱちではないのかと思うようになった。
いい学校を出て、いい会社に勤めて、結婚をして、子供を作るー。これが絶対的な成功で、絶対的な幸福なのかという疑問が強くなってきた。

きっかけはハゲタカという映画の中に出てくる有名な台詞。「世の中には二つの不幸がある。一つは金のある不幸。もう一つは金のない不幸」。



この台詞を初めて聞いた時に頭をガツンとレンガのようなもので殴られたような印象を受けた事を鮮明に覚えている。
マネーとは自分にとって何か?そしてそれに付随する価値観について自分はどう思っているのか?

そんなことを20年以上も生きてきて真剣に考えた事が一度もない事に気がついた。
そして生きる事と関連して、自分にとってマネーとは何か?自分にとってマネーとはどういった価値を持っているのかを考えるようになった。

考えに考えた上にたどり着いた結論は、「自分にとってマネーは尊いものである。それがあることで人は選択肢を持つことができる。マネーのある不幸もある一方で、彼は選択肢を同時に持っている。彼は現実に不幸かもしれないが、そういった不幸な環境を手放す選択肢も、維持する選択肢も持っている。反対にマネーを持っていない者に選択肢はない。ただ自分を取り巻く環境に流され続ける以外に術を持っていない。僕にとってマネーとは自分の可能性を最大化してくれるものだ。マネーがないよりはあったほうがいい。それもあればあるほど望ましい。僕はどちらかというとマネーが好きだ。好きというより愛していると思う。だからマネーを、可能な限り自力でかき集められる、それでいて僕が当初抱いていた世の中の役に立つ事を実現できるような仕事でマネーを稼ぎたい。そうすることで世の中との接点を持ちたい」。

こんな結論に至った。これが今から2年ぐらい前。
今でもこれに近い思いを僕は持っている。

金のない不幸が身の回りで置きた事も、この思いをより確かなものにした。
よくマネーを持っている事は成功と定義されるような風潮がある。
そして実際にマネーを持っている人達は、マネーを持ってない人達と違うシグナリングを発しているように僕らは思い込まされていて、そのわかりやすい例が物質的な豊かさだと思う。

大きな家、大きな車、美しい女(あるいはセックス)、プライベートジェット、アルマーニのスーツ、フェラガモの革靴、ダンヒルのベルト、機械式腕時計、雑誌の広告に出てくるようなわかりやすい物質的な豊かさの一例だ。
これらを身につける事で、経済的な成功者であることをPRでき、そのシグナリングによって引き寄せられる様々なエクスタシーに人は酔う。
物質的な豊かさは人を精神的にも幸福にするー。

そう信じ込まされてきた気さえする。そうしないと経済は廻っていかないから、人々がこれを信じ続ける事はそれなりに大事な事だとは思う。
でも僕はあまりこれらを渇望したいとは思えなくなった。

もっとありふれた日常に幸福を見いだしていたい。朝起きた時に自分を生きていると思える生活。そんな自分のライフスタイルを確立する事のほうが重要に今は感じている。

人の命でさえも値段を付けてしまう資本主義が全ての価値観をフラットにしてしまった。
そうすることで資本主義はさらなる力を得て、それに従わない人達を排除することが可能になるから。

拝金という本では、これらの欲望を超える瞬間をマネーを得た者は感じる時があると言う。
そしてそれを「突き抜ける」と表現し、自分なりのマネーとの距離を考えてみるのはどうか?と提案している。

僕は自分が突き抜けているとは思わないけれど、今の所バランスをうまく保ちながらやれていると感じている。
それでも時々こうも思ったりもする。「自分はマネーの奴隷なのではないか?」と。
そんな不思議なマネーという存在と僕はこれからどうやって付き合っていくのだろう。


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