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アフィリエイト収入発生

スクリーンショット(2010-09-29 6.20.18)


よくアフィリエイトで稼ぐには1テーマ1サイト、よりミクロには1テーマ1ポストと言われるが、ガチでそれで食っていく人は別として僕のように書きたいことを書きたいように書いて自分を表現したい人もいる。

そんな人間でもまあずーっと日記を書いているとその筋な方(どんな筋だ)が読者になってくれて、定期的にアフィリエイト収入が発生するようになるのだなぁという印象。

ブログって出来ては消え、また新しいのが出来てと代謝が激しい世界だが、僕の場合はその立場的なものもあって閉鎖することなく今のところ続けられている。

継続は力と言うが、まさにその通りで続けるからこそ結果を出せるし、続けられるからこそモチベーションを保ちながら進むことができる。

続けること、続けられることは自分にとって重要なテーマである。
持続可能性とも言うが、この要素があるかないかを物事の判断基準に使うことが僕はとても多い。
それはなぜかというと、うまくいくときというのは偶然性のあるものと再現性のあるものの2種類があると思っているからだ。

偶然性というのは、幸運に得た結果やまぐれのように一度だけ得られた結果のことを指す。
それに対して再現性というのは同じようなアプローチや考え方を適用すれば再び成果を出すことのできる可能性が高いことを指す。

僕がここ2年ほど力を入れているのが後者の再現性というものである。
そのために長期で付き合える関係、自分にとっての心地良さ、自然体というのを考え続けてきた。

アフィリエイトに関しても、大げさすぎず、自分が身銭を払って購入してきたものに特化して紹介をしてきたのが良かったのかと思ってる。
ダメなものはダメとばっさり切ってきているし、話題があるものや世間では売れているものでも自分が良くないと思えば良くないと書いてきたつもり。

今回発生したアフィリエイト収入はおそらくインク代に使って終わると思うけど、また何か良いものがあれば紹介していきたいなぁというモチベーションになった。

お金って稼ぐのも難しいけれど、それを守ったり、うまく運用していくのもそれ以上に難しいと思ってます。
買って良かったなぁという経験は高いものを購入したときにだけ得られるものじゃない。

生活の中に存在する身近な、誰もが目にしている当たり前の光景にこそ、幸せや満足感は実は見出しやすいと考えています。

これからも書きたいことを書きたいように書いて自分を表現していきたい。
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Anytime smokin' cigarette



前も書いた気がするが、この曲はホントよく出来ていると思う。
詩がすごい。発売当時はさっぱりわからんかったが、今は共感できるというか、感じるものがある。


キーホルダーを最近つけ替えたからね
白い子猫がくたびれてきたから
車のエンジンかけるとき必ず
いつも思い出すあなたの言葉
なんで鍵だけもってっちゃ駄目なのねぇ
余計なものはつけてくないからね
ある日すべてをなくして初めてわかった
言われた通りにすればよかった
メンソールはINMYBAG奥に隠れてる
法律で許してくれてるものだし
100円玉2個とほんのちょっとで
1時間くらいはItcouldbeallright
暑いのは誰のせい
邪魔なとき1人になるしかないから
口に出さずに消えてゆく
そしてSmokln'thecigarettekoolになって
Wowwowwow…
Idon'tknowGOAL
Idon'tknowSOUL
Idon'tknowROLL
落ちてる石でいいよ
Idon'twantbeaDOLL
Idon'tneednoRAIL
Idon'tknowRULES
私だけのRULEじゃ通らない
20yeardsold過ぎたってゆうのに
ガキのように操られて
大事なものが壊れてゆく
他に何もできない
何も聞こえない
言いたいことはわかってるよ
いろいろ溺れる子たちを横目で
見てきたよ会ってたしゃべってたつるんでた
みんなもそれぞれRULE持っていた
下らない男を取り合いしないよに
馬鹿げてる話には乗らない
車にも乗らないもし乗ったら馬鹿を見て
Youhavetosmoke(CIGARETTE)
Youhavetosmoke(ANYWAY)
YouhavetosmokeCIGARETTE
Wowwowwow…
Idon'twantGOAL
Idon'twantSOUL
Idon'twantROLL
落ちてる石でいいよ
Idon'twantbeaDOLL
Idon'tneednoRAIL
Idon'tknowRULES
私だけのRULEじゃ生きれない
煙草の煙に乗って
もうちょっと休ませて
イライラしてるんだねなんて
不思議のない世界
別に怖くない
淋しくもなければ怖くもない
暑いのは誰のせい
邪魔なとき1人になるしかないから
口に出さずに消えてゆく
そしてSmokln'thecigarettekoolになって
Wowwowwow…
Idon'tknowGOAL
Idon'tknowSOUL
Idon'tknowROLL
落ちてる石でいいよ
Idon'twantbeaDOLL
Idon'tneednoRAIL
Idon'tRULES
私だけのRUALじゃ生きれない
恐る恐る窓の外見て
なおさら
今日も表に出たくなくて
ただひたすら
ずうーっと走り続けてるうちに
疲れがたまってあっという間に
病院送りになる前に
cigaretteでも吸おうかな…
Lalala…Lalala...Lalala…
Wowwowyeah…Wowwowyeah…
20yearsold過ぎたってゆうのに
ガキのように操られて
言いたいことはわかってる
でも聞きたくない
理由なんてどうでもいい




究極のご都合主義な結末

車の運転をしているときは独り言を言っていたり、歌っていたりするのだが、今日はふと自分にとって最高にご都合のいいおめでたい未来を考えていたよ。

1,友人と再会をする
高校に入学して以来、時間を共有することが少なくなった友人達と再会をする。それ以前に付き合いのあった人達とも思いがけない形で再会をする。

2,彼らが実は自分を拒否していたのではなく、彼らもまた僕が彼らと別々の道を歩んでいるのだと感じていたと告白をしだす。

3,僕は涙を流して「今まで僕が勝手に思い込んでいた被害妄想にも似た空想はなんだったのだろう」とその場に倒れこむ。

4,暖かい光が僕を包む。今この瞬間に自分の人生が終わってもいいと思う。

5,僕は人生の主導権を取り返し。敗者であった過去の自分と決別をし、真の理解者を再び得る。僕を理解し、共感し、支持してくれる人がたくさん現れるようになる。僕もまた彼らを理解し、彼らに共感をして、彼らを支持をする。そんな相互関係が復活する。意識をしなくてもそこにいつもいる感覚を再び手に入れる。

6,友情を取り戻すやいなや、愛にも目覚める。一点の曇りなく残りの人生を共有したいと思える人が現れる。お互いにないものを持っていて、コアの部分の共通する価値観が完全に一致をする人が現れる。

7,昔思い描いたような死を迎える。側には家族が、孫がいる。満ち足りた思いで一生を終える。恐怖はない。

8,僕の肉体は土に還り。魂は昇華される。あるいは別の形でまた物語が再生をされる。

あの時堀の外と思っていた世界はまた別の堀の中だった

見えないけれどそれは確実に存在する。
ガラスのように透明だけれど確実に障害物として存在していて、その先に行こうとしてもぶつかってしまう。

そんな世界が延々と続いていた。もしかしたら今もその世界にいるのかもしれない。
肉体でさえも現世につなぎとめるための鎖と考えることもできる。

不自由な環境、こうであればいいのにと思う理想がある。
現実はそこからとても乖離しているように見える。

てこを使って無理やり理想を手に入れようとするが、自分が手に入れた新しい世界にもまた別の問題点が見つかる。
そうやって死ぬまでいたちごっこを僕は続けていくのだろうか?

心の牢獄、取っ払うことができればいいのにと思うけれど、時々その牢獄の塀に僕は安心を見出しているのかもしれない。

自由とは何だろうか?
自立とはなんだろうか?



マトリックス、ザナルカンド、真実を知る事だけが常に最善とは限らない

P1010508

ここ最近のお気に入りの記事とは言えば、般若心境を唱える猫もそうなのだが、
この2つの記事だろう。

映画「Matrix」と資本主義
ザナルカンドにて:ファイナルファンタジーXと資本市場

とても深く考察されていて、これこそまさに感じていた事なんだ!という感じ。

多分、学生時代にこれを読んでも響かなかったと思うし、普通に就職してもあんま響かなかったと思う。

マトリックスもFF10も最近になってやり直して(見直して)みたのだが、やっぱり良く出来ているし好きな作品だ。

自分はマトリックスだと一番最初の作品が圧倒的に良く出来ていると思うけれど、マトリックスを知って、攻殻機動隊というアニメに興味を持って、イノセンスを含めてあの世界観に触れる事ができたのでオッケー。
作品と関連する制作者の人達や音楽にも興味が広がった。

FF10は多分自分が一番好きなゲームだと思う。
子供の頃はドラクエのほうが好きだったが、大学に入った辺からストーリーに深みがあるFFがとても好きになった。

FFは13と11と1以外は最後までやったと思うが10が圧倒的に好きかな。
ゲームバランスがいいし、ストーリーにとても共感できる所が多い。

他には4もすごい好きだけどdsでリメイクされたのはゲームバランスが良くないのと、ボイスつきにしたのはいいのだが、あんまキャラと声がマッチングしてないように自分は感じたのでオリジナル版(SFC)のほうが好きです。

話を戻して、上記の2つの記事に加えて、ハゲタカで提示されているテーマについて深く考え始めた辺か自分の軸が明確に固まりだしたように思う。
自分が何者で、どこに向かおうとしているのかがハッキリとしてきた気がするのだ。

今マトリックスを見てもcgに驚いたりする事はないと思うし、FF10もPS3がある今では古さを感じる人もいるだろう。

でも良い作品は古くても良い。
皆様も機会があれば触れてみて欲しいと思います。



ここ一年の良かった事と、良くなかった事

9月という季節は自分にとっての一年の始まりようなものである。
それはなぜかというと大学を卒業延期して9月に卒業したので僕にとっての卒業後の生活のスタートはこの季節だからだ。

今まであまり過去を振り返らずにひたすら走ってきたが、働くようになってはじめて休暇を先日取った事や、自分の中で様々な価値観や考え方が変化しているように感じるのでその辺の思考を整理してみたいと思う。

学生時代の自分と今の決定的な違い

学生時代ー。随分と遠回りをして自分の方向性を探っていた期間だと思う。
自分にとっての適正と思っていた事が実は嫌いな事だったり、良くも悪くも周りに期待しすぎて自分自身の位置づけが曖昧な時期だった。
そして何よりも良くなかったのは常に自分の身に起きる事を他人事のように扱ってきた事だ。
自分自身の今の姿と言うのうは全て過去の自分の決断の延長でしかない。

つまらないと思っている学校生活を選んだのも、自分と価値観が合う人と付き合えないのも、全て自分自身が選んできた結果でしかない。
それを良い事、悪い事という短絡的なやり方で評価をすると不幸になってしまうと思う。
”ただそれだけのこと”と考え、自分自身の良くない所も含めて受け入れるー。

こういった考え方ができるようになったのがここ数ヶ月であり、学生時代の自分と決定的に違う点だと思う。

考えてみれば何かを選択をするという行為でさえ、自分自身が解釈をした枠組みの中での出来事でしかない。
xxを選考したからそこで学んだ事を活かせるだとか、yという業界ではz社が一番勢力を持っているから第一志望にしようだとか、勝手に自分の中で小さな世界を作り出して意思決定をしてきた。

自分自身ができないと思い込んでいる事。私はこれができない、なぜならば、、という考えも心の中で勝手に作り上げた幻想でさえある。

僕らは僕ら自身が作り出した目に見えない牢獄に囚われている。
その牢獄というのが僕にとって学校だった。
もちろん学校にいた事で役に立った事もあるのだが、学校という場所を介して間接的に身につけてきた何かや、経験群というのが圧倒的に今の自分に繋がっている。

あまり真剣に学問に打ち込まなかったというのももちろんあるのだろうが、僕の場合はそんな感じで、サークルであったり、プチ留学経験だったり、ボランティアだったり、自らそうする必要があると強く感じた意思決定の先にあるものが特に強く今に生きている。

それは僕自身の本質、自分自身の中で腑に落ちてかつそうすることが正しいと納得したことにしか注力できない点にもよく現れている。

卒業後の世界で良かった事

そんな僕であるが、ここ一年いい事ももちろんあった。
何よりも自分自身を生きていると実感できる毎日になったこと。
これは自分自身の幸福の定義ができたことと強く関係している。

自分の感じる幸せって何なのだろう。
お金なのか?やりがいのある仕事なのか?それとも別の何か?
この定義は人によって違うし、僕は別に他人の幸福感を否定するつもりなんてない。
ただ自分はどう思うのか?それを考え続けた。

そして自分なりの幸福感に向かって今は前進をしている。
これから先どうなるかはわからないけれど、今は毎日の自分が気に入っているし、朝起きた時に”職場に行きたくない”だとか”学校が嫌だ”とか、”同僚や上司と会うのが億劫だ”という気分には全くならない。

今までの自分は上記に挙げたような感情を毎朝毎朝感じて満ち足りた何かを感じる事はほとんどなかったように思う。
それが今では朝起きた時に、自分が生かされている事に感謝をし、未来を前向きに捉える事ができるようになっている。

そういった考えができるようになった今の自分が好きだし、それはとてもいいことだと思ってる。

卒業後の世界で良くなかった事

これはたくさんある。
学生時代に世話になった人に会いに行けるような、彼らが思っているであろう”立派な人”に僕はならなかったわけだし、僕自身は残念ながら学生時代を自分の暗黒面と言うか、挫折とネガティブな思考の連続と思ってしまっている。
過去をあまりいいものとして評価をしていないのだ。
それはもったいない過ごし方をしたと言えるし、何かに打ち込むでもなく、何をしても中途半端で、何に対しても秀でることができなかったコンプレックスの塊だったのだろう。

しかしあの屈辱的な毎日が、叫んでも叫んでも見つからない自分の居場所が、過去の自分があったおかげで手に入ったとも言える。
つまり良くなかった事というのは、裏返せば良くなりうる要素を含んでいる。

僕は多分他の人が就職面接でPRするような、協調性であるとか、高い忍耐力といったものは持ちあわせていない。
いや持ち合わせるためのチャンスは何万回とあったけれど、それを破棄してきた人間だ。
自分でそうすることが自分にはいいことだと、そう思って喜んで破棄をしてきた。

僕は時々羨ましいと思う。
誰かと力を合わせて、それはもしかしたら自分と合わない、付き合うのが億劫かもしれない人達とでさえ一緒になって、共通のゴールに向かって突き進み達成する喜びを知っている人を。

僕はまた時々嫉妬をする。
自分自身を評価し、理解し、励ましてくれる存在がいる人達の事を。
もちろん僕にもそういった人はいることにはいるのだが、なんと言うか宗教臭いが魂で繋がる事の出来る何か、会った瞬間にはじめてあった気がしないアレを感じられる人が圧倒的に少ないように思うのだ。

だからそういった経験群が豊富な人はとても羨ましいと思うし、これは別にもちろん異性だけの話ではなくて、友人関係であっても本気で本音でぶつかりあえる人がいる人達には僕はいつも嫉妬する。
そういった人達にはそれがもしかしたら当たり前なのかもしれないけれど、今の僕の幸福感は人との付き合いよりも自分自身との対話に重きが置かれているのでそういう関係は当面の間僕は持てないだろう。

でもそれでいいんだと思う。
それが僕の今の決断なんだから。

自分自身が本気で実現したい何かがあるなら、ノイズを排除して心で感じるままに行動を起こすといいんじゃないかと思う。
僕はここ1年、心で感じたままに生きてきた。
自分自身を騙さないで生きてきた。
長期的に付き合えない人達との関係を減らし、長期で付き合える人や仕組みを求め続けた。

この旅にも似た生活はこれからも続く。

そしてこれを読んでいるあなたの物語も素敵なものになりますように。
そう願いながら筆を置きたい。

車の長距離運転と休憩についての考察

先日は学生時代から一貫して世話になっている方が現在住まれている岐阜県まで車で行った。
距離は東京から400キロほど。新潟まで行くのとほとんど同じなので近いのではないか?と思っていたのだが実際は6時間ぐらい到着までかかり、かなり疲れる。

なぜ疲れるのかというと、名古屋までの道は交通量が多く、その割には2路線しかない道も多く、首都高をずっと走っているような感じがずっと続くからだ。
走った事のある人はわかると思うが、首都高は狭い道を大量の車が殺人的な速度で走っているので非常に緊張感を持って運転をしないとすぐに後ろの車に煽られたり、クラクションを鳴らされてしまう。

さすがに煽りやクラクションは岐阜までの道では経験しなかったものの、それなりに混んでいる道をそれなりの速度で走る緊張がずっと続くのはこたえた。

そこで途中のパーキングエリアでいつもの2倍ぐらいの頻度で仮眠や休憩を取ったことで、こうするといいのではないか?という仮説が思い浮かんだので現時点での思考の整理としてまとめてみたい。

1、まず水分
季節的なものもあると思うが、夏の季節、特にこれを書いている2010年は例年にない暑さなので頻繁な水分補給が必須である。
これを怠ると脱水症状や熱中症の危険があるだけでなく、集中力の低下に伴う安全運転への影響も危惧されるわけで、気を使っていきたいものである。

自分の感覚としては移動距離300キロ程度ならば1.5リットルのペットボトル1本ないし、500ミリリットルのペットボトルを3本用意すればちょうど良い具合に、休憩と水分補給ができるという感覚である。




ある程度水分を取るとトイレに行きたくなるので、トイレに行くためにPAに停車→それが休憩に繋がる→再び水分補給という流れが出来、半強制的に休憩が適度に取れる仕組みができる。

休憩を取る事でより安全に運転をして目的地に到着をする。それが仕事であれ、遊びであれ忘れてはいけない基本事項だ。

2、350キロを超える移動は仮眠も取っていく
移動距離が350キロを超えてかつそれがある程度交通量が多い場所ならば仮眠を効果的に取る事で体力を温存したり、延命する事が可能になる。

その先にあるのは目的地により確実に安全に到達するという目標なわけだが、今までは休憩さえ取っていれば車の中でわざわざ眠る必要はないと思っていた。
しかし岐阜への出発時間を早朝に設定し、事前に睡眠時間をそれほど確保せずに出発した事もあってか、静岡県に入った辺で猛烈な睡魔に教われた。
体が違和感を訴え、運転に集中ができなくなる、このままでは危ないと思ったのでSAにて1時間ほどの仮眠を取った。

複数人での移動時はできないテクニックだが、助手席のシートを背面まで倒すと運転席よりも広い空間が確保できる。
この状態で枕またはクッションをヘッドセットに設置して、タオルケットか毛布のようなものを体にかけることで簡易ベットを作ることができる。
これにアイマスクと耳栓があれば、SAの街灯の眩しさにも左右されず、車の騒音からも解放されて眠りに集中できる。





時期的には暑さもあったのでエンジンを入れたままエアコンは作動したままの仮眠を取ったが、完全に回復とはいわないまでも、眠気は確実に軽減がされるし、体力も幾分は回復するように感じる。
今回は長距離移動だったので仮眠が必要とされやすいシーンだったが近場の移動であっても、本当に疲労を感じてしまって危険を感じるのならば上記の方法を一般道などでも適用して仮眠を取ってみたいと思う。

ホームセンターの駐車場や大型商業施設の駐車場で上記のようなスタイルで仮眠を取られている方をよく見かけるが、今回岐阜に行った事で彼らがなぜそうしているのかがよくわかった。

3、運転を楽しむ仕組みを作る
長距離運転になればなるほど、車と付き合う時間が長くなればなるほどこのことを考えていったほうがストレスが軽減される。

例えば私の場合、聞きたいと思いながらもじっくり聞く時間が確保できない音楽をipodに転送して車の中で聞いている。
あるいは読みかけの本を仕事や高速道路の合間に取る食事の待ち時間に読んでいる。

こういったものは一度準備してしまえば、車での移動の時にはそれらと付き合わざるを得なくなるので、自動的に消化ができる。
また、自分の好きな事なのでそれほど苦痛を感じずにこなしていけると思う。

普段の生活で音楽や本をじっくり読むには集中する環境が必要だが、車での移動ならば普段ほど意識をしなくてもそれらと付き合う事が可能になる。

音にこわだわりがある人ならば車に搭載されているスピーカーを交換してみるのもいいだろう。
私自身1万円程度のそれほど高くないスピーカーに交換しているが、このクラスでもかなりの違いを感じることができる。

最近ではノイズキャンセリング機能を搭載した車向けのアンプや、音の低位を車向けにカスタマイズしたスピーカーも売られており、安価な製品でも良い音を手に入れやすくなっていていいと思う。
オーディオに興味がある人ならばこういった所に力を入れてみる事も、車と付き合って行く楽しさを深める要因になるだろう。



私の場合は他にも車内の臭いや清潔状態を保つために、合理的かつ経済的な仕組みを模索して色々と試している。
私の場合、車の外装が汚いのはそれほど気にならないが、車の内装が汚れているのは気になる。

特に私は汗がたくさん出る人間なので夏場の車内の臭いにはかなり気を使っている。
毎日着た服を洗濯するのは当然の事として、運転終了後に必ずファブリーズをする、フィルター類を定期的に交換して車内に奇麗な空気が生まれやすいように配慮をしている。





最近は車向けの空気清浄機も販売されているので、時期を見計らって導入する予定もある。1万円ほどで本体は売られているのだが、配線がどうなるのか、配線のための工賃はいくら必要なのかを見極めROI的にバランスが良さそうなら導入するつもりだ。




前にも少し書いたかもしれないが、私は何でも自分で管理するのが好きな人間である。
他人に任せたほうがいいこともあるが、身の回りのものは極力自分の判断と責任で管理をしていたい。
そうすることで私はモチベーションを高める事ができるので、それを自分の身の回りに可能な限り適用をしている。

私自身のカーライフにもこの管理好きな性格が適用されて現在に至っている。

カーナビについて現時点で感じている事

1年前から車に乗るようになって、様々な経験をしてきた。
その中でもカーライフと切って離す事のできない存在となっているのがナビである。

ナビは車にある程度乗る人、近場だけでなく遠出や行った事のない場所(地理に精通していない場所)に行く人には必須アイテムだと思う。
これがあるおかげで生まれて一度も行った事のない道も安心して運転できるだけでなく、地元の人が使う裏道のようなものまで活用が出来てしまい、それを身につけるために必要な労力を一瞬で手に入れることができる。

ナビがあれば他に必要なのは、長距離運転時の休憩と安全を意識した運転技術だけである。
ナビが普及するまでの時代というのは、出かけるための計画を立て、その地域の地図を本屋さんで購入をして大まかなルートを頭の中で組み立ててから出発をしなければならなかった。
それはそれで楽しいことなのだが、仕事で出かける必要があるシーンなどでははっきり言って毎回準備が大変すぎだと思う。

今はナビのおかげで、電車の最速ルートもパソコンや携帯から調べる事で圧倒的に時間と労力を節約できる。
目的地付近の駅や停車所に到着後も、徒歩に対応したナビ(携帯で対応しているものもある!)を使う事で歩きながらナビゲーションを受けることができる。
今や道に迷う事はテクノロジーの恩恵によって現代人には無縁となった。

ジャイロセンサーと言って、自分が移動している方向までを機械が認識をするから、上り方面に移動をしているか、下り方面に移動しているのか、あるいは高速道路を走っているのか、一般道路を走っているのかも認識が今のナビはできる。

そんな便利なナビについて自分が現時点で感じている事について考えを整理したいと思う。

高いナビと安いナビの違い
ナビを買う時に予算を決めると思うが、安いのと高いのは何が違うの?と感じると思う。
結論から言うと付加機能が違う。
具体的には、

•例えばガソリンが少なくなった時に自分がいる場所の近くにあるガソリンスタンドの場所だけでなく、料金までもリアルタイムで表示してくれる機能。
•渋滞を予測して回避してくれる機能。
•都心部の細かな場所まで詳細に表示してくれる機能と大画面液晶。

高いナビ(10万円以上)にはこういった機能が搭載されている。

予算が許すならこういったモデルを買うのもいいと思うが、私の場合そこまで高機能なものは必要なかったので、今の所5万円ぐらいのナビを使っている。(サンヨー ゴリラ)



機能としては、
•VICS(渋滞や混雑状況を教えてくれる)機能。
•徒歩ナビ機能。
•2010年度の地図データ。
•フラッシュメモリ搭載。(動作が速い)
•電話番号や名前から目的地が検索できる機能。

などがあり、使い方を工夫すれば快適に使えるようになっている。
例えば目的地検索は郵便番号検索ができればもっと便利だと思うのだが、住所を入力していく操作もそれほど苦痛には私は感じない。
有名なお店や場所だと電話番号からかなりの確率で目的地が検出される。(例えばジャスコに行きたい場合は、ジャスコの電話番号を入力すればジャスコxx店としてダイレクトに目的地が検出される)

これがさらに安いモデル(3万円以下)になると、
•電話番号や検索機能がなくなる。
•画面小さい(携帯電話より小さい)

例:



最近は車を買うとナビがそもそも内蔵されているケースも多いので一概には言えないが、後から取り付ける場合、5万円ぐらいあれば最低限不便を感じる事はなくなるように感じる。
プロの運転手やタクシーを手配すると、1回数千円以上の費用が発生するわけでそれを考えれば、5万円でプロの知識が買えると思えば安いと思う。
時間の節約と地図を調べたりする労力から解放され、目的地まで安全に運転をするという車本来の目的にのみ注力をする事ができるようになるメリットは大きい。

地図データの更新ができるモデルも多く、最初から内蔵されているモデルでも1万円から2万円程度支払えば最新のデータに書き換えてもらうことができる。
都心部などでは新しく高速道路が開通したり、再開発で道が新しく出来たりと変化しているので、2年から3年ぐらいで地図データは書き換えるとより快適に使えると思う。

現状、私の車には最初から搭載されているナビとサンヨーのゴリラの2台がついている。
内蔵されているモデルは広域範囲で使うか、オーディオの操作にしか使ってないので出番は少ない。
なので地図データは書き換えていない。
ゴリラについては実際に使っていて不便を感じるようならば地図データ書き換え、または買い替えて行こうと現時点で考えている。

拝金

マネーと自分の距離について考える時、ものすごく自分の本質的な所に触れる感覚になる。
自分は何を求め、どこに向かおうとしているのか?
この質問に対する答えを、マネーは明確に定義させてくれる。

初めて就職活動をした時に考えた事は、世の中の役に立つ事がしたいという思いだった。
そうすることで働き続けるモチベーションを維持できると思ったし、働き続けるということは稼ぎ続けるという事も意味しているから、何かそれは素晴らしい事のように感じた。

ところが、どこに行っても何をしても、ただ違和感ばかりを感じている自分がいることに気がつく。
それは就職活動をしたからそう思ったのではなく、もっと昔から、幼少の頃から自分はどうやら他の人達と少し違う価値観で動く様だというぼんやりとした感覚から感じていたものだった。

ある日、自分の軸をもう一度見直してみたいと思うほど強烈な体験が僕に降り掛かった。
愛する人との別れ。
人間が乗り越えなければならない苦しみの中の一つ。

この経験を通じて僕は生きる事というのはどういうことなのか、幸福とは一体何なのか?を真剣に考えるようになった。
そして自分が幸せになるために何をしなければいけないのか?を真剣に考えるようになった。

ある日、就職活動を通じで出会ったある会社の役員の人が「なぜ就職するのかを考えてみたらどうだ?」とさりげなく言った。
就職する理由ー。社会に貢献するため。経済的に自立するため。社会人として、プロフェッショナルとして生きていくため。
そういった答えが当時の自分の頭の中では回答として導きだされた。

今でもこういった思いに近いものも部分的に持っているし、こういった考え方が間違っているとは思わない。
きっと他の人達も部分的にはこれに近い思いで、働くための決意をしてきているだろう。

だけど本当にそうなのか?それだけなのか?と聞かれた時に僕の心は一瞬の迷いもなくYES!と答える事がいつもできなかった。

何よりも大きな要因として、既存の働いている人達の中に、自分もこうでありたい、こうなりたいと思える人をほとんど見いだす事が出来なかった。
彼らは確かに高度な実務をこなし、プロとして生計を立て、家族を養っているが、あまり幸せそうに見えない。
稼いではいるが、あまり豊かではない、自転車操業的な側面さえ見えた。

幼い頃から、努力はいい事だ、欠点を少なくして他人から評価される人間になれば成功が出来る、そう教育は教えてきた。
それに応える人達をすごいと思ったし、きっと彼ら彼女らは成功するのだろうとずっと思っていた。
そしてそういった人達のように成果を上げる事の出来ない人間は野垂れ死にするしかないのかもしれないと時々感じていた。

ところが色々な人に会い、様々な側面を見ていくうちに、どうも自分が信じ込まされていた側面は嘘っぱちではないのかと思うようになった。
いい学校を出て、いい会社に勤めて、結婚をして、子供を作るー。これが絶対的な成功で、絶対的な幸福なのかという疑問が強くなってきた。

きっかけはハゲタカという映画の中に出てくる有名な台詞。「世の中には二つの不幸がある。一つは金のある不幸。もう一つは金のない不幸」。



この台詞を初めて聞いた時に頭をガツンとレンガのようなもので殴られたような印象を受けた事を鮮明に覚えている。
マネーとは自分にとって何か?そしてそれに付随する価値観について自分はどう思っているのか?

そんなことを20年以上も生きてきて真剣に考えた事が一度もない事に気がついた。
そして生きる事と関連して、自分にとってマネーとは何か?自分にとってマネーとはどういった価値を持っているのかを考えるようになった。

考えに考えた上にたどり着いた結論は、「自分にとってマネーは尊いものである。それがあることで人は選択肢を持つことができる。マネーのある不幸もある一方で、彼は選択肢を同時に持っている。彼は現実に不幸かもしれないが、そういった不幸な環境を手放す選択肢も、維持する選択肢も持っている。反対にマネーを持っていない者に選択肢はない。ただ自分を取り巻く環境に流され続ける以外に術を持っていない。僕にとってマネーとは自分の可能性を最大化してくれるものだ。マネーがないよりはあったほうがいい。それもあればあるほど望ましい。僕はどちらかというとマネーが好きだ。好きというより愛していると思う。だからマネーを、可能な限り自力でかき集められる、それでいて僕が当初抱いていた世の中の役に立つ事を実現できるような仕事でマネーを稼ぎたい。そうすることで世の中との接点を持ちたい」。

こんな結論に至った。これが今から2年ぐらい前。
今でもこれに近い思いを僕は持っている。

金のない不幸が身の回りで置きた事も、この思いをより確かなものにした。
よくマネーを持っている事は成功と定義されるような風潮がある。
そして実際にマネーを持っている人達は、マネーを持ってない人達と違うシグナリングを発しているように僕らは思い込まされていて、そのわかりやすい例が物質的な豊かさだと思う。

大きな家、大きな車、美しい女(あるいはセックス)、プライベートジェット、アルマーニのスーツ、フェラガモの革靴、ダンヒルのベルト、機械式腕時計、雑誌の広告に出てくるようなわかりやすい物質的な豊かさの一例だ。
これらを身につける事で、経済的な成功者であることをPRでき、そのシグナリングによって引き寄せられる様々なエクスタシーに人は酔う。
物質的な豊かさは人を精神的にも幸福にするー。

そう信じ込まされてきた気さえする。そうしないと経済は廻っていかないから、人々がこれを信じ続ける事はそれなりに大事な事だとは思う。
でも僕はあまりこれらを渇望したいとは思えなくなった。

もっとありふれた日常に幸福を見いだしていたい。朝起きた時に自分を生きていると思える生活。そんな自分のライフスタイルを確立する事のほうが重要に今は感じている。

人の命でさえも値段を付けてしまう資本主義が全ての価値観をフラットにしてしまった。
そうすることで資本主義はさらなる力を得て、それに従わない人達を排除することが可能になるから。

拝金という本では、これらの欲望を超える瞬間をマネーを得た者は感じる時があると言う。
そしてそれを「突き抜ける」と表現し、自分なりのマネーとの距離を考えてみるのはどうか?と提案している。

僕は自分が突き抜けているとは思わないけれど、今の所バランスをうまく保ちながらやれていると感じている。
それでも時々こうも思ったりもする。「自分はマネーの奴隷なのではないか?」と。
そんな不思議なマネーという存在と僕はこれからどうやって付き合っていくのだろう。


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