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一回忌

母の死からもう一年も経ってしまったのか。
一年前の今頃は内定先でインターンを同じような事をしていた。

当時の僕は就職とは何たるかを知らずに、自分へのベクトルの最大化こそ成功へのステップアップだと信じてやまなかった。

母の死と引き換えに生きる事とはどういうことか、それは働くコトというのはどういうことなのかも同時に真剣に考えるようになり、自分なりの答を出せた。

すなわち、組織への就職というのは、すでに確立された仕組みの中の歯車の一つにしかすぎないという事。

自分がいなくても組織というのは回っていくが、効率性を高めるために組織は人を雇う事。
そして人を雇えば企業文化にそれだけの影響が発生する事が今は理解できた。

インディペンデントな生き方というのは短期的にも長期的にも自らがアクションを起こす事であり、世間的に勝ち組な組織から内定をもらえることではない。
もちろんそういった組織から内定を貰える事はすごいことではあるのだが、それが自らが絶対の存在の証明かと言えば違う。

候補者の中で従順さと賢さを一定の割合で見いだされたにすぎない。

この事に気がつくのに2年もかかったわけだが、今生きている自分という人間は果たして誇れるものなのか。

母は自分の事を自慢の息子と認めているのだろうか。
あるいは恥ずかしい存在として困惑をしているのか。

死を自覚したとき、認識したとき人は何を感じるのか。
直感的な何かが残された者に対してメッセージを送ろうとする事ならば、彼女が残したそれは僕に対する大きなメッセージ。

生きていく事、一人で出来る事。
その認識に対する変化である。

虚しさとは心の硬直化から生まれるものである。
一回忌を行った築地本願寺でそんなメッセージを見つけた。

人の死を経てなお、変われない、感じる事が出来ないのであればそれは心が死んでいるからだ。
心が動いているようで止まってしまっているから、何も感じられない。

時々、生きている事は苦しみそのもので何もかもが無意味にさえ見えてくる事があるけれど、それでも僕は生きる事を今なお考えている。

人を救う事、意義を創造する事。
それも尊い事であるが、それだけではないはず。

あえて簡単な言葉でそれを表現するならば、明日死んだときに何かやり残して大きく後悔をしてしまう何かを残さない事。
それが今の自分にとって生きている理由なのかもしれない。


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